世界的アイドルとして成功を収める一方、60年代以降のロック・ポップスシーンに与えた影響も含め、その楽曲の普遍性、革新性もまた高く評価されており、現代音楽の金字塔として揺ぎない地位を保っている。60年代日本のグループサウンズもまた、ビートルズから影響を受けたジャンルのひとつである。
その解散後、イギリスで大人気アイドルが出て来る度に「第二のビートルズ」という呼び名で表現された。70年代前半のT.レックスや70年代後半のベイ・シティ・ローラーズ、90年代のオアシス等がそれに当たる。
(注;個々のアルバムやビデオ作品については別項ビートルズの作品を、個々の楽曲に関してはビートルズの曲名一覧を参照のこと。)
ジョン・レノン(John Winston Ono Lennon)(1940年10月9日−1980年12月8日)(リズムギター、ハーモニカ)
ポール・マッカートニー(Sir James Paul McCartney)(1942年6月18日−)(ベース、ピアノ、アコースティックギター、ドラム)
ジョージ・ハリスン(George Harrison)(1943年2月24日−2001年11月29日)(リードギター、モーグ・シンセサイザー)
リンゴ・スター(本名 Richard Starkey Junior)(1940年7月7日−)(ドラム、パーカッション)
以下の文中では、それぞれ「ジョン」「ポール」「ジョージ」「リンゴ」と表記する。
担当楽器
上記のように「ギター2本、ベースギター、ドラム」が初期においての基本的な楽器編成であるが、例外もある。
また中期〜後期にかけては、リンゴ以外のメンバーの担当楽器は曲によって実に流動的であり、担当を記す意味もあまりなくなっている。
リードギタリストはジョージだが、曲によってはジョンまたはポールもリードギターを担当している。ポール作「ハニー・パイ」でのジャズ風のシンコペーション的フレーズを弾いているギターや、ジョン作「ヤー・ブルース」の前半のギターソロ、ポール作「ゲット・バック」、ジョン作「アイ・ウォント・ユー」などのリード・ギターはジョンである。
ポールは、ジョン作「涙の乗車券」、ジョン作「グッド・モーニング・グッド・モーニング」、ポール自身の作「ヘルター・スケルター」、「バック・イン・ザ・USSR」、ジョージ作「タックスマン」などのリードギターを弾いており、共にポール作の「ブラックバード」、「マザー・ネイチャーズ・サン」などのアコースティック・ギターのナンバーにも優れた演奏が多い。「総合的には、ビートルズの中で一番ギターがうまかったのは、デビュー前にベーシストに転向したポールだ」との意見もある。ジョージのリードギターについては過小評価される向きもあるが、解散後のソロ時代に確立したスライドギターの名手としての評価は高いし、彼のワン・アンド・オンリーのギターの音色はビートルズ・サウンドのひとつの特色となっていることは言うまでもない。ちなみに「ジ・エンド」の間奏部分では、ジョン、ジョージ、ポールの3人によるギターバトルを聞くことができる(ポール、ジョージ、ジョンの順番に2小節回しのプレイ)。
また、ジョンとポールはピアノなどの鍵盤楽器をしばしば演奏している。ジョンは中期頃のライブにおいて「トリ」の曲として演奏された、ポール作「アイム・ダウン」では、たびたびリズムギターの代わりにオルガンを担当していた(ただし、日本公演での同曲の演奏の際は、ステージ上にオルガンは用意されていたものの、通常どおりリズムギターを担当していた)。ジョン作の「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのイントロのメロトロンはポールの演奏である。主にピアノはポール(自作「マーサ・マイ・ディア」、ジョン作「セクシー・セディー」等)、オルガンやローズ・ピアノなど電子鍵盤楽器はジョン(自作の「アイ・アム・ザ・ウォルラス」、ジョージ作の「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」等)というパターンが多かった。
「ロング・アンド・ワインディング・ロード」などの中期から後期の作品で、ポールが主に自作でピアノを担当する時は、ジョンがベースを担当することも多かった。また、「ヘイ・ジュード」のプロモフィルムでジョージがベースを弾くシーンをはじめ、ジョンとジョージは6弦ベースを演奏することもあった。(ポール作「トゥー・オブ・アス」は、ジョージがエレキギターでベースラインを弾いたもので、6弦ベースではない)ちなみに、ポール以外のメンバーが最初にベースを弾いたのは、「シー・セッド・シー・セッド」(1966年)でのジョージ。この曲のレコーディング日(6月21日)、メンバーとの些細な口論からポールはスタジオを出て行ってしまい、残る3人でのレコーディングとなってしまったため。
アルバム『アビー・ロード』では、モーグ・シンセサイザーが、ジョージによって導入された。単音しか出せないが、現在の(アナログ)シンセサイザーの元祖でもある、当時の最新楽器である。ジョージ自作の「ヒア・カムズ・ザ・サン」や、ジョンの曲「ビコーズ」で演奏し、ポールが自作「マックスウェルズ・シルヴァー・ハンマー 」で、ジョンが「アイ・ウォント・ユー」で、それぞれ演奏している。
ジョージが「ノルウェーの森」でインド楽器のシタールを導入し、それがビートルズがインド音楽の影響を受ける端緒となったことは有名である。またジョージが演奏した他のインド楽器には、「ゲッティング・ベター」でのタブラ、「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」でのソードマンデルなどがある。
他、68年のリンゴの脱退騒動(一時的なもので、当時公にはされなかった)に絡んで「バック・イン・ザ・USSR」と「ディア・プルーデンス」、それとは別に「ジョンとヨーコのバラード」のドラムはポールが演奏している(「ジョンとヨーコのバラード」のレコーディングでは他の2人が休暇を取っていたため、ジョンとポールだけで行われた)。ポールは解散後のソロ作品でも数多くの楽曲でドラムを叩いており、その演奏力には定評がある。その他、曲によってはメンバー各人がパーカッションを演奏している。ジョンのサックス(「ヘルター・スケルター」で使用)など、珍しいパターンもある。
メンバー以外のミュージシャンによる演奏としては、エリック・クラプトンが「ホワイル・マイ・ギター・ジェントリー・ウィープス」のリードギターを弾いているのは有名である。その他、プロデューサーのジョージ・マーティンが「イン・マイ・ライフ」のクラシカルなピアノの間奏などで、ローリング・ストーンズのブライアン・ジョーンズが「ユー・ノウ・マイ・ネーム」においてサックスで演奏に参加している。また、ビリー・プレストンによる「ゲット・バック」のエレクトリックピアノなどがある。
作詞作曲とリードボーカル
メンバー全員が作詞作曲をし、ボーカル、コーラスも担当する。
多くのヒット曲をはじめ、オリジナル曲の80%以上の作詞作曲は「レノン=マッカートニー」名義(シングル「フロム・ミー・トゥ・ユー」までとアルバム「プリーズ・プリーズ・ミー」では「マッカートニー=レノン」名義)である。しかし、実際に2人が共作した曲は30曲程度かそれ以下と見られている(「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」、「アイヴ・ガッタ・フィーリング」や「ベイビー・ユア・リッチ・マン」などのような、2人別々に作った曲のパーツを組み合わせた形の作品も含む)。
ジョンまたはポールのどちらかがほとんど1人で作った曲についても、作者クレジットは「レノン=マッカートニー」となっている。これはビートルズ結成当初から、2人の友情の証として、どちらか一方が作った曲でも「レノン=マッカートニー」と連名にする約束が2人の間で取り交わされていたからである(そのことが後のいくつかの法的争いの元凶ともなる)。
この約束はレノンは比較的律儀に守っており、1969年にレノンがプラスティック・オノ・バンド名義で発表した「GIVE PEACE A CHANCE(平和を我等に)」の作詞作曲名義も「レノン=マッカートニー」となっている。ビートルズの公式発表曲のなかには、ジョージの作品が20数曲、リンゴの作品が2曲(その他、レノン=マッカートニーとリンゴとの共作が1曲)、全員の共作1曲が含まれている(『ビートルズ・アンソロジー』のシリーズには、ジョンとジョージとの共作のパターンも、例外的にあり)。
※ただし本編では、担当楽器やボーカルパートなど必要性の認められる場合に限り、公的や法的に「レノン=マッカートニー」名義であっても、「ジョン作」「ポール作」等の表記をする。しかし歌詞や一部メロディーなど、どちらかが作曲段階や録音段階でサポートしている場合もあり、バンドに特有な、単なるアドバイスや共作やアレンジの境目が曖昧な曲も多いため、あくまで「原作」や「主な作曲者」程度の意味合いの曲もある。
リードボーカルはジョンまたはポール、あるいは2人一緒にとることが多いが、ジョージとリンゴもリードボーカルをとる。レコードデビュー以前のステージでは、ジョージもジョンやポールと同様にリードボーカルをとる曲が多かった。デビュー後では、「コピー曲」(「カバー曲」「スタンダード」などともいう、すでに発表された他人名義の曲のこと)も、ジョンとポールによるボーカルが最も多く、オリジナル曲でも主に自ら作った曲を中心に担当していたため、やはりジョンとポールが多かった。
コーラスは声質の関係で、上のパートからポール、ジョン、ジョージの3人でのハーモニーをなすことが多く、このパターンが最もバランスがとれていた(曲によってはジョンとジョージのパートが入れ替わる場合もあるが、聴感的には同様)。この3人のハーモニーにリンゴが加わるパターンは、中期から後期における一部の曲に限られる。
その他の関係者
ほとんどの曲をジョージ・マーティンがプロデュースしている(但しアルバム「レット・イット・ビー」のみフィル・スペクターがプロデュース)。ジョージ・マーティンもイン・マイ・ライフの間奏等、一部の曲でピアノも演奏している。
レコードデビュー以前のビートルズのメンバーとして、スチュアート・サトクリフ(ベース)、ピート・ベスト(ドラム)の2人がよく知られている。スチュアートがバンドを脱退した後ポールがベーシストとなった。ピートは、レコードデビュー直前(正式録音か、テストやリハーサルだったのかは不明だが、彼の参加したテイクは近年公表された。)に他のメンバー3人がプロデューサーのジョージ・マーティンに申し入れ、彼らの希望していたリンゴをロリー・ストーム & ザ・ハリケーンズから引き抜く形で入れ替えられた。ジョージ・マーティンは当初リンゴの加入を知らず、アンディ・ホワイトというドラマーを手配していた為、ラブ・ミー・ドゥでは2人のドラマーのテイクがある。シングルではリンゴの、アルバムではアンディのバージョンが使用された。
ビートルズが音楽ビジネスのプロモーションを確立した立役者として、マネージャーのブライアン・エプスタインがいる。彼が1967年に急逝したことは、ビートルズ解散の遠因になったと言われている。ちなみに彼は同性愛者で、「ジョン・レノンに恋愛感情を持っていた」という説もある。
その他の外部ミュージシャンでは、エリック・クラプトン、ビリー・プレストン、ブライアン・ジョーンズ(ローリングストーンズ)などが参加している。また1964年の海外ツアーの際、リンゴが扁桃腺炎で入院した際は、一時的にジミー・ニコルというドラマーが代役としてツアーに帯同している。
来歴
デビュー当初から初期
ビートルズのデビューが決まり、曲を録音する段階で、ジョージ・マーティンは誰をメインボーカリストにするか悩んだという。当時は特にリズム・アンド・ブルース系やドゥーワップ系のグループなどでは、「リードボーカリスト&バックコーラス、又は、リードボーカル・ウィズ・バックバンド」という形式が多かったためである。その他、スターを1名プッシュして売り出すという目的もあった。レコードデビュー以前、主にステージで生計を立てていた時代は、ポールやジョンよりもむしろジョージが多く歌っていたステージもあったくらいで、非常にマーティンの頭を悩ませていた。最初は声質やハーモニーパートから、ジョンをリードボーカルとして押し出すつもりであったが、ポールの声質も捨てがたかったという。悩み抜いた末、ジョンとポールの2人を押し出すことに決定した。
それが、デビュー後の「シー・ラヴズ・ユー」「抱きしめたい」などの、ジョンとポール二人で歌っているうちの、「どちらがリードボーカルのメロディーなのかわからない曲」や、「ア・ハード・デイズ・ナイト」などのように「1曲の中でソロパートとして、2人が歌い分ける曲のパターン」、「エイト・デイズ・ア・ウィーク」「デイ・トリッパー」などのように「最初はジョンやポールがリードボーカルだが、いつの間にかリードパートを歌っている者がハーモニーやバックコーラスに回り、リードボーカルが交代してしまうパターン」などの形態が出来上がる結果につながったと言える。
日本公演
日本公演は、読売新聞社と中部日本放送の主催によって1966年6月30日から7月2日にかけて5公演、東京・日本武道館において行われた。初日は夜のみ、2・3日目は昼および夜の各2回公演であった。
当初、初日のステージの様子が録画されテレビ放送されることになっていたが、ビートルズ側の言い分(マイク・スタンドの不備等)によりその映像は放送されず、急遽、翌7月1日昼の部のステージが収録されて、その日の夜9時から日本テレビ系列にて放送された本放送に使われた (詳細はザ・ビートルズ日本公演を参照)。7月1日公演分の録画(白っぽい衣装)は、放送終了後エプスタインが持ち帰ってしまったため、近年何度かされた再放送や、1986年に日本国内のみで正式発売されたビデオなど(今は廃盤)は、6月30日公演分の録画(ダークな衣装)である。当時開発されたばかりの2インチ高画質カラービデオテープで収録されたこの公演はとても鮮明な画像で残されており、数少ないカラーのビートルズのコンサート映像の中でも世界的に類を見ないものであるため、日本国内のみで正式発売されたビデオは海外のファンの間ではかなりの高額で取引されている。
ちなみに7月1日の映像はDVD『アンソロジー・エピソード5』で2曲のみ見ることができる。全曲は非公式ビデオ・DVDでしか見ることができないが、見どころとして「アイ・フィール・ファイン」の冒頭でジョンがギターでフィードバック音を出している部分が挙げられる。また、このDVD『アンソロジー・エピソード5』には、ほんの数秒ではあるものの、当時ビートルズの広報を担当していたトニー・バーロウによって撮影された、7月2日昼の部のカラー8mm映像も収録されている。今のところ、存在が確認されている日本公演の映像はこの3ステージ分のみであるが、実はこの時、東京オリンピック開催時とほぼ同じ規模だったと言われるビートルズ日本公演の警備の模様を記録した『ビートルズのすべて』と題された記録映画が、警視庁によって製作されている。内部資料の一部であり、当然のように非公開映画であるため、どのような構成なのか、モノクロなのかカラーなのか、上映時間は何分なのか、またビートルズの姿やビートルズのステージの模様も収録されているのか、などといった具体的な内容は一切不明であるが、この映画の中に、上記3ステージ以外のステージの模様や、楽屋やホテルでのビートルズの姿が記録されている可能性はある(そもそもこの記録映画『ビートルズのすべて』のフィルム自体、残されているのかどうかは大いに疑問であるが)。
タレントの志村けんは、7月2日昼の部の公演を2階前列で見た際に、テープレコーダーで録音(※歓声やベースの反響音が録音されているだけだった)。また同日夜の部では、ジョンがサングラス(※リヴォルバーの裏ジャケットで掛けているタイプ)をして公演をした珍しい日でもあった(※直前の公演地、西ドイツでも使用例あり)。当時はPAシステムが整備されておらず、あまりの大歓声に演奏者であるビートルズ及び観客には良く演奏が聴こえなかったという。これは日本公演に限らずビートルズのどの公演にも当てはまるのだが、そのため、勘で演奏をしていた部分もあり、ワンパターンの決まり切った演奏(特にドラム)しかできなかったらしい。
この日本公演に関して言えば、武道館のアナウンス用スピーカーからも演奏を流していたのと、欧米諸国に比べファンが騒ぐことなく比較的おとなしく演奏を聴いていた(実際には、「席を立ち上がったら即退場」という規制が敷かれていたことと、1階のアリーナには警察官および関係者以外立ち入り禁止だったため2階のスタンドより上にしか観客はいなかった)ため、演奏自体はおおかた聴こえていたようである。しかしながら、「まったく聴こえなかった」という人と「いや、ちゃんと聴こえた」という人とどちらの証言も多数あるため、客席の位置によって聴こえた場所と聴こえなかった場所があった可能性は非常に大きい。
今でこそ東京ドーム同様、武道館でのロックコンサートは頻繁に行われているが、当時は佐藤栄作首相をはじめとして、「神聖なる日本武道館でのロックバンドが演奏することなどけしからん」という意見が多数を占めていた。これに対しポールは「僕らは演奏をしに来ただけだよ。例え日本の舞踊団がイギリス王立の会場でパフォーマンスを行ってもイギリス人は伝統を汚されたとは思わない。」と反論。ジョンも「戦うよりも音楽を演奏する方が平和でいいよ。」「僕らはここでやってくれと言われたからやるだけで、別にボクシング場でもどこでも僕らは構わない。」とコメントしている。
司会を勤めたのはE・H・エリック。前座として尾藤イサオ、内田裕也、望月浩、桜井五郎、ジャッキー吉川とブルーコメッツ、ブルージーンズ(寺内タケシは所属事務所渡辺プロダクションを退社する条件としてグループから脱退した直後のため出演していない)、ザ・ドリフターズ(6月30日 7月1日のみ)が舞台に上がった。前座の模様は版権の関係でビデオ化されたことはないが、映像自体は残されており、時折テレビでも一部が放送されることがある。6月30日 7月1日昼の部両日共に記録されているが7月1日は当時放送分に公開されたきり、一度も放映されていない。7月1日のVTR全てをビートルズサイドが持ち帰ったためとされている。
しかしこの日本公演は、アメリカでの1964年、1965年の公演に比べると、ライブとしては決して良い出来とは言えなかった。音程は外れていたし、マイク等の機材も品質の良い物ではなかった。ライブ前の記者会見でジョンが「ビートルズを聞きたい人はレコードを聞いてください。ビートルズを見たい人はコンサートへ来てください。」と言っていたことも考えると、始めからまともに演奏する気がなかったことが伺える。この発言の真意は、ジョンはライブ活動をやめたがっていたためと推測される。
初日公演翌日の7月1日の朝刊では、全国各紙一斉にこの日本公演の模様を大々的に報じた。どの新聞社も一通り公演の様子を伝えてはいるものの、ビートルズの演奏よりも熱狂する少女や厳重な警備体制に焦点を定めた社会記事的な扱いをしており、また数ある新聞社の中でも朝日新聞だけは、「1曲目の「ツイスト・アンド・シャウト」から始まり、「ヘルプ」「プリーズ・プリーズ・ミー」とヒット曲が続くと少女たちの熱狂は頂点に達した。・・・」などと、実際の演奏曲とはまったく違う明らかな予定稿を載せていた。このことからも、当時の日本のマスコミは「ビートルズ」そのものよりも「ビートルズが巻き起こす社会現象」に関心が強かったことが伺える。
ザ・ビートルズ日本公演を見た主な著名人(前座出演者は除く)
三島由紀夫
遠藤周作
大佛次郎
志村けん
沢田研二
岸部一徳
加橋かつみ
岸部シロー
瞳みのる
萩原健一
堺正章
財津和夫
ばんばひろふみ
松村雄策
かまやつひろし
宇崎竜堂
大島渚
横尾忠則
ザ・ピーナッツ
中尾ミエ
梓みちよ
石原裕次郎
桐野夏生
松本隆
かまやつひろし*
芳村真理7月1日VTRに観客席の中に
高田文夫
加瀬邦彦
湯川れい子
星加ルミ子
平尾昌章
かまやつひろし
淡谷のり子
ライブツアーの停止とレコーディングアーティストへの脱皮
日本公演が終わった直後の1966年のアメリカツアー、8月29日のサンフランシスコ、キャンドル・スティック・パークのステージを最後に、ビートルズはライブ活動を停止する。
当時の彼等は、ライブにおいて満足な演奏ができない環境にあった。ポールによる「スタジオ盤では問題ないのに、ステージの録音を聞くと、ハーモニーが上ずってしまい、音感の悪さに気落ちしてしまう」という主旨の発言もあった。彼等に限らず、当時のステージにはモニター(ステージ上のミュージシャンが、自分達の出している演奏や歌声を聞いてチェックするためのスピーカー)などは設置されていなかったので、止むを得ないところもあると言える。
しかも観客の増加とともに会場は野球場(特に1965年8月15日のシェイ・スタジアム公演は象徴的なものとなった)やサッカースタジアム、室内でも地区有数の大会場で行うようになり、ヘビーなサウンドを大音量で出しても観客の少女達の大歓声で演奏がかき消されてしまったという。シェイ・スタジアム公演の模様は、日本では映画として公開されているが、後に歌と演奏の一部にスタジオでダビングが施され、「アクト・ナチュラリー」に至ってはレコード音源で収録されている。しかも映像に合わせるために部分的にレコード(テープ)の回転数を上げたり演奏をカットしている。この様な状況の中、メンバーがライブに対する関心をなくしていったのは自然な流れであったともいえる。
また、翌年67年8月、マネージャーのブライアン・エプスタインが睡眠薬の多用により死亡する。エプスタインの死自体と直接の関係があるのかどうかは定かではないが、彼のいなくなった後バンドとしての求心力やメンバー間の結束は弱まり、解散の遠因となったとも言われる。
ライブ活動の停止以降、彼らはレコーディング活動に集中し、次々と革新的な作品を発表する。初めて本格的なスタジオワークを駆使した66年のアルバム『リボルバー』は、ライブでの再現性を全く無視した実験的な試みを行ったが、こうした取り組みがポップス音楽の金字塔と称される67年の『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』に結実して行く。同作品は同時代のアーティストに非常に多大な影響をもたらし、彼等の音楽的評価を決定づけた。その後もテレビ映画「マジカル・ミステリー・ツアー」を自作自演、68年には個々の個性が際立つ二枚組オリジナル・アルバム『ザ・ビートルズ(俗称:ホワイトアルバム)』など傑作を発表。同年に発表した「ヘイ・ジュード」はビートルズ最大のヒット作となった。ビートルズがライブツアーを続けていたとしたらこのような音楽的進化を遂げることはできなかったとさえ囁かれる。ドラッグ、サイケデリックに突入する時代と、その時代のミュージックシーンの先頭を駆け抜けて行くことになる。
ジョンのキリスト発言
ビートルズがまだ世界ツアーをしていた頃、ジョンが「ビートルズはキリストよりも知名度が高い」と発言したことにより、キリスト教国でビートルズ排斥運動を巻き起こした事件。この発言は1966年3月にジョンが英国「ロンドン・イブニング・スタンダード」誌に答えたインタビューの一部だったが、同年8月に米国誌に転載されると大問題となり、アメリカ各地や世界中のキリスト教国でデモが行われたり、レコードやポスターが焼かれたり、彼等の楽曲のオンエアを控えなければならなくなったラジオ局が増えたりと、大変な騒ぎとなった。その後ジョンが発言を撤回したが事態は直ぐには収拾しなかった。
なお、この一件は単なる舌禍事件に留まらず、ビートルズの活動内容に転換をもたらすと共に、特にジョンが自分とビートルズとの関わり方を見直して行くことになるターニング・ポイントとなった。あまりのファンの熱狂ぶりにコンサートでの演奏がまともにできなくなっていたことと、過酷なスケジュールとホテルでの缶詰生活からツアー自体に嫌気がさしていた各メンバーは、ジョンのキリスト発言を機に各地で起こったビートルズ排斥運動を見てツアーへの興味を失ってしまった。またジョンとしては、現状の聖職者に対する不満をジョークとともに皮肉ったつもりであったが、周囲にあまりに過剰に反応されたことに対して、自分の意志や信条に忠実な発言ができないアイドルとしての立場に強いフラストレーションを感じるようになった。さらには、自己の等身大以上に巨大化し、もはや自らもコントロールできなくなってしまった「ビートルズ」という存在自体に嫌気がさし、次第に距離をおいて行くようになる。そして、このことが逆に、自分に忠実な自由な活動をするという信念をジョンに持たせることになり、過激な政治運動、ヨーコとの活動、ビートルズの否定という、その後のジョンの生き方に反映されて行くことになる。
ビートルズの解散がある種必然的な出来事だったとしても、ジョンのキリスト発言以降、ビートルズの活動に明るさが失われ、中心だったジョンに次第にビートルズへの興味、音楽への興味を失わせた大きな事件でもあった。これ以降、徐々にビートルズはポールを中心としてスタジオ活動に専念して行くことになるが、ツアー時代と異なりメンバー間の結びつきは次第に薄れて行く。
ジョン・レノンの曲「イマジン」にも「キリストを侮辱した」などの苦情があった。
[編集]
アルバム『レット・イット・ビー』と同名の映画
映画『レット・イット・ビー』はDVDでの再リリースが決定(2006年3月現在では正式なリリース日は未定)しているが、この映像を見ると解散間近のビートルのぎこちない雰囲気が一目瞭然である。
これは、ビートルズがスタジオで新アルバムを制作している様子をドキュメンタリータッチで記録したものである。ビートルズとして最後のライブ演奏となった「ルーフトップ・コンサート」(彼らのレーベル「アップル」のビル屋上でのゲリラライブ)の演奏は秀逸だが、メンバー各自のストレスが、演奏の気だるさやバンドのやる気のなさとなって随所に現れている。
ジョンとポールはジョージ・マーティンの録音立ち会いを断ったりもしており、それまでメンバー間の緩衝材としての役目を果たしていたリンゴの手にも余る状態だった。そんな中、ジョージがビリー・プレストンをエレクトリックピアノ(一部ハモンドオルガン)担当のバックアップメンバーに連れて来る(ジョージ・ハリスン個人の項目参照)ことによって、外部のミュージシャンが側にいると良い子になるジョンやポールの性格を利用した。その結果、さらに演奏の出来もよくなり、バンドの雰囲気を変えるのには思いの外役に立った。
途中で撮影(+演奏、録音)場所をトゥイッケナム・スタジオから、当時未完成だったアップル社の地下スタジオに移し、EMIスタジオから機材(前年の通称『ホワイト・アルバム』の途中から使用し出した8trレコーダーがメイン)を借り受けて再開。演奏のボルテージは上がってはいったが、「ゴールが解散」と、メンバーたち自身が意識的にか無意識的にか悟っている状態であり、坂を転げ落ちていくバンドの動きを止めるのは不可能だった。
その後、テスト盤『ゲット・バック』は作られたが、満足のいく出来ではないために音源は日の目を見ず、ジョンたちの依頼によりフィル・スペクターが手をかけて『レット・イット・ビー』として完成(商品化)させるまでに丸1年以上発売が遅れることとなる。
リハーサルからルーフトップコンサートの終わった約半年後、ポールがジョージ・マーティンに「ビートルズの新しいアルバムを作る」と協力を依頼してきた。マーティンは自分の耳を疑ったが「本気で作る気ならば(プロデューサーとして)立ち合う」ということで合意し、制作、完成されたのが『アビイ・ロード』である。
「最後に発売された彼らのオリジナル・アルバムが『レット・イット・ビー』、「ビートルズとして最後に制作(録音)されたのが『アビイ・ロード』といわれている」所以がそこにある。尚、『アビイ・ロード』の「B面(CDは後半部)のほとんどをメドレー形式にする」というアイディアはポールのものであり、彼が中心になって作業が進められた。逆にレコードでいうA面(CDであれば前半)は、主にジョンが仕切ったと言われている。
1970年12月30日、ポールがアップル問題も絡めての脱退訴訟を他の3人に提訴する形で起こし、公的に解散状態となる。その前年の69年9月(20日といわれる)におけるメンバー間でのミーティングの席上、ジョンが脱退意思を非公式に表明(キャピトルレコードとの契約更新が間近であったことから、当時のマネージャーのアラン・クレインの画策によりひた隠しにされた)していたが、70年春、ポールはジョンに電話で伝えた上で正式脱退発表を行い、ビートルズとして発表されたアルバム『レット・イット・ビー』にポール自らのファースト・ソロアルバム『マッカートニー』を(他のメンバーの反対を押し切る形で)ぶつける形のリリースとなった後の出来事であった。(ポール・マッカートニー個人の項目参照。)
「何年か後には活動を再開する」という、マネージメント(アラン・クレイン側)の発表も方便であることが露呈した後も、何度か「ビートルズ再結成!?」の記事が新聞や音楽雑誌、テレビニュースに数年ごとに出てくるが、ついに正式な再結成はなかった。
解散後と度重なる再結成の噂
ビートルズ関連本の一部では、今でもオノ・ヨーコがジョンをビートルズから引き離した張本人として悪者扱いされる例が散見されるが(現在ではそういう論調は少なくなった。70年代には、ほぼ8割が嫉妬交じりの「オノ・ヨーコ否定論者」であったと言っても過言ではない。)、直接の原因は誰にも分からない。ジョンにとっては、「ビートルズ・ブランド」がデビュー当初に自分達が意図していたものからかけ離れてしまい、バンドの名前だけが一人歩きしてしまっていたことに原因があったと言えるだろう。事実ジョンは、ポップスターという自分自身の立場に嫌気が差しており、前衛芸術家であるヨーコにインスパイアされるかのように、ファンには理解しがたい前衛的なパフォーマンスを繰り広げて行くことになる。マネージメントに恵まれない状態で、「エプスタインの死によって(バンドを維持するためか否かは別として)メンバー個人個人が自分の思う道を進んだ結果、バンドとしては方向性を見失ってしまった」という前述の災難も大きく影響していることは間違いないと思われる。
ポールはステージ活動を訴えかけたが、ジョージやリンゴは反対した。ジョンは1968年のローリング・ストーンズがホスト役を務めた「ロックンロール・サーカス」や、1969年ロンドンでのユニセフのチャリティコンサートにおいて、エリック・クラプトンなどとライブ演奏をしている。(解散後も含めた以降のソロ活動については、ジョン・レノンの個人の項目参照)
解散後から『ビートルズ・アンソロジー』リリースまでの動きや作品については、各メンバーの項目の記事やヒストリー(年表)、ビートルズの作品を参照。
解散直後の1971年頃には、ジョン・ジョージとポールの不仲も頂点に達した。特にジョンとポールはお互いのソロアルバムの中で痛烈な非難をやりあった。その中でも一番辛辣なものとして名高いのが、1971年のジョンのアルバム「イマジン」収録の「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」であろう。ここでジョンは、ポールと最も不仲であったジョージをもレコーディングに参加させ、「サージェント・ペパーズ」や「イエスタデイ」、「ポール死亡説」までをも持ち出して、ポールの事を辛辣に皮肉っている(具体的な内容については「ハウ・ドゥ・ユー・スリープ?」の項を参照のこと)。この後リンゴの忠告によって反省したジョンは、この曲をリリースしたことを後悔しているといった発言もし、ジョンとポールの仲は少しずつ修復していったらしいことが窺える。 「最期の電話では最高の友達同士だった」というポールのコメントが、何よりもの証であろう。
リンゴは、解散してからも他の3人のメンバーとの親交を温め続け、ジョン、ポール、ジョージともにリンゴのソロアルバムのレコーディングにかかわっている。1973年リリースのアルバム『リンゴ』では3人全員がセッションに参加し、特にその中の収録曲「アイム・ザ・グレーテスト」(作者はジョン)ではジョン、ジョージ、リンゴが一緒に演奏。ベースを弾いたクラウス・ブーアマンはハンブルグ時代からのビートルズの親友で1966年のアルバム『リボルバー』のジャケットを手がけており、一時はジョージがポール脱退後、クラウスを加えて新生ザ・ビートルズとして活動したがっていると伝えられていた。
公式に4人全員が揃って姿を見せることは遂に一度もなかったが、メンバー同士はそれぞれ交友を保ち続け、またビートルズ解散の原因ともなったアップル社の問題を話し合うために、非公式に4人全員で数回会っている事などは知られている。
70年代にはいり、ジョンがヨーコと別居生活を送っていた1974年に、スティービー・ワンダーらとともに、ジョンとポールが「ルシール」や「スタンド・バイ・ミー」などをジャム・セッションしているテープがブートレッグ(海賊盤)CDとして発売された。これは、訴訟中ではあったが解散の数年後にジョンとポールが顔を会わせて共演したことの証明として重要な位置を占めているものであり、また2000年には英音楽誌「MOJO」に、この時のジョン、ポール、キース・ムーン、ポールの妻リンダ・マッカートニーが一緒に写っている写真が「ジョンとポールが一緒に写った最後の写真」として公開された。このセッションではジョンがギターとボーカル、ポールはドラムスとハーモニーを担当。ちなみにこの時ポールが叩いているドラムセットはリンゴのものである(リンゴはこの当時ジョンやハリー・二ルソンらとともに共同生活を送っていたが、ポールが訪ねてきた際にたまたま外出中だったため、惜しくもこのセッションに参加することはなかった)。「ルシール」「スタンド・バイ・ミー」では久々のジョンとポールによるデュエットが聴ける。
また、それと同時期にリリースされたウイングス時代の名曲「バンド・オン・ザ・ラン」の一節“If We ever〜”の最後のラインの下コーラスはジョンではないかという噂もある。
以降、新たな音源のリリースはないと思われていたが、1995年に始まった「アンソロジー企画」の中で、ジョンが1977年頃製作していた「フリー・アズ・ア・バード」のデモテープを基に、ELOのジェフ・リンを共同プロデューサーに迎えての新曲としてリリース(製作作業は94年)している。これがビートルズ唯一の正式な「再結成」とされている。96年には、やはりジョンのソロ曲「リアル・ラヴ」もビートルズ版としてシングル化(製作作業は95年)されるが、以後はジョージの死などもあり、「再結成的」な動きは見られていない。
その影響
音楽的貢献
ファッション面での貢献として、初期にだけ限定しても、服装は「襟なしルック(スーツ)」、髪型は「マッシュルームカット」などといった、数々の点が挙げられる。またそれ以上に、ロック・ポピュラー音楽史の面で重要な役割を果たしたと思われることは数え切れないが、音楽面で絞り込むと以下のようなことが挙げられる。
当時ポップス音楽では作詞作曲、演奏、歌がほぼ完全に分業化されており、そのルックスと音楽的センスから音楽界に衝撃を与えたエルビス・プレスリーでも持ち歌は別の人の作詞作曲であった。これに対しビートルズは、当初はR&Bのコピー曲があったものの、中期以降はすべて自分たちのオリジナル曲であり、デビュー曲の「ラブ・ミー・ドゥー」以降シングル・カットはすべてオリジナルであったが、当時としてはこれは非常に珍しいことであった。ビートルズが自らオリジナル曲を作っていたことに触発され、ローリング・ストーンズのミック・ジャガー、キース・リチャーズが自作の曲を作り始めたことは有名である。
次に、高いポップ性の下に信じられない数のヒット曲をリリースし、その勢いはイギリスだけにとどまらず(音楽面では米国からもやや低く見られていた当時のイギリス音楽界から)米国本土に本格的に進出し、定期的にヒット曲を送り込むほどのバンドであったこと(米国での正式レコードデビューの年でもある1964年には、4月4日付のビルボード誌のシングルチャートの1〜5位を独占)が挙げられる。
一方、中期に差し掛かる辺りから「イエスタデイ」「エリナー・リグビー」でのストリングス、「フォー・ノーワン」でのフレンチホルンなどといったクラシック音楽家が演奏する曲』がリリースされ、また『ジョン作の「ノルウェーの森」で初めてジョージがシタールを導入しはじめ、主として「ラヴ・ユー・トゥー」、「ウィズイン・ユー・ウィズアウト・ユー」、「ジ・イナー・ライト」など、彼の曲で際立っていたインド音楽の楽器演奏』を、サウンドに融合する形で組み込んだこと。(ジョージについては直接インド音楽を導入した作品が目立ったが、それらは、後にサイケ色が強まる形で、「ベイビー・ユアー・ア・リッチマン」などといった、ラーガロックへと、レノン&マッカートニーの手で昇華されていくこととなる。また、「ゴット・トゥー・ゲット・ユー・イントゥー・マイ・ライフ」では、ブラスセクションを導入するが、これは彼らが最初というわけではなかった。)
このような幅広い楽曲を作ったビートルズは、デビュー当時は単なるロックンロールバンドと見られていたが、その音楽的な領域は単なるR&Bにとどまらず、バラードからハードロック、バンド音楽からピアノ曲まで、ありとあらゆるジャンルに広がっており、以降、世界のロック・ポップス音楽はあらゆる領域で、多かれ少なかれビートルズの影響を受けていると言える。このようなある種「音楽のデパート」の様な傾向は、二枚組アルバム『ザ・ビートルズ』(通称ホワイト・アルバム)に顕著に見受けられる。 同時に後述のアルバム「サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド」のように高い音楽性を示す作品も作り出しており、バンド音楽、ボップス音楽をある種の芸術にまで高めた功績も非常に大きい。
ライブ活動をやめてからの彼等は、新曲のプロモーション用にイメージビデオ撮影を行ってそれをテレビで放送するという方法を取り始めた。これが現在のプロモーションビデオの原型であると見る向きもある。『ビートルズ・アンソロジー』においても、ジョージが冗談交じりに「MTVは僕らの発明さ」と語っている通り、当時は非常に画期的なことであった。
『サージェント・ペパーズ』の衝撃
ライブ活動停止後間もなくレコーディングが始められ、今までにない長い作業の末リリースされたアルバム『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』のリリースは、世界に衝撃を与えた。
2台の4トラックテープレコーダー(最終的には2台によるピンポン録音から、1台目の1トラックに信号音を入れて、それを電気的に増幅し、シンクロさせた2台目のモーターを起動して使用)を利用したオーバーダビングだけで作り上げたそのサウンドには、様々な楽器や効果音が使われている。当時の技術でこれだけのサウンドを作り上げることは非常に衝撃的な出来事だった。当時はまだアメリカでさえ実現していない「8トラックを超えるテープレコーダーが完成した」などという噂も飛び交っていた。
このアルバムはそれまでの彼等の音楽とは異なり、各収録曲がそれぞれ全然違うタイプの曲であり、非常に広範なジャンルの楽曲の集まりだった。これを「架空のバンドによる擬似ライブショー仕立てにする」との設定で、1枚のアルバムとして統一感を持たせるというアイディアはポールのものであった。この「擬似ライブ仕立て」というのは、ビートルズとしてのライブ活動を再開したかったポールのフラストレーションの現れや、他のメンバーへのメッセージだったとも言われている。
実際に最初の2曲(多少最後の2(3)曲もつながっている)はメドレー形式になっていて、最後に再度バンドのテーマ曲に相当する短い曲(リプライズ)を演奏し、アンコールに相当する曲もその後に配置されている。ジョンはほとんど曲を提供しなかったため、何度もポールに急かされていた。解散後のインタビューでジョンは「このアルバムはポールのソロアルバム」といったニュアンスに近い発言をしている。確かにポールの曲が半分以上を占めているが、それと逆に初期の名作アルバム『ビートルズがやって来るヤァ!ヤァ!ヤァ!』では、大半の曲をジョンがメインとなって作った曲で占められていたので,バンドにおいては対等なリーダー格が複数いる場合は特に、特定のメンバーが優位に立つことは珍しいことではない。
「ジャケットに歌詞を印刷する」「ドラムのチューニングを極端に落とした上、布などでミュートする」(これは『リボルバー』レコーディング時に、テープスピードを可変させながら録音していくテクニックを駆使する中で発見されたサウンドのテクスチャーを『サージェント〜』では意図的に作り上げたとされる)「ベースラインが和音(コード)のルート音に限定せずに、時にはフレーズやメロディーをプレイする時もある」など、全て彼らが最初に行ったとは言えないとしても、画期的な手法を分かりやすい方法で押し出して完成させたものである。それまでビートルズを聴かなかった多くのロック嫌いの人たちの心を掴んだ。
当時では、ロックバンドとオーケストラが共演するなどということは考えられなかった。この成功は、プロデューサーのジョージ・マーティンに因るところが大きい。1965年の「イエスタデイ」で弦楽四重奏を使用したのがその始まりだが、フルオーケストラとロックバンドの競演となると事情が違ってくる。特に当時のクラシックの演奏家はプライドが高く、「ロックなど成立して10年ほどしか経っていない騒々しい音楽以下の雑音」、「ロックバンドなどのレベルの低いミュージシャンと一緒に演奏したくない」などと思っていたとしてもおかしくない。そういった風潮の中で「ア・デイ・イン・ザ・ライフ」などでの競演が実現した。こういった点を鑑みると、クラシックにも精通していてスコアも書けたマーティンの仲介がなければ実現不可能だったことは十分考えられる。さらにクラシックの演奏家の中にも、アコースティックやバラードを多く手掛けるようになったビートルズに好感を持つ人が増えていたことも一因だろう。
数多くの謎
ビートルズはその革新性と数多くの功績を残した。それと同時に数々の詳細不明なエピソードも残している。
「ルーシー・イン・ザ・スカイ・ウィズ・ダイアモンズ」(英語で表記すると、"Lucy in the Sky with Diamonds")という曲があるが、タイトルの名詞の頭文字をつなげると「LSD」となり、語句の色彩感、内容表現の難しさの一方で、文脈に意味が無いことからドラッグソングとしてアメリカやイギリスの多くの放送局で放送禁止となった。後にジョンは「今思うと歌詞も意味がなく馬鹿げている。タイトルで「LSD」の文字が入ったのは偶然だ。」と述べている。ジョンいわく、「息子のジュリアンが近所に住む女の子、ルーシーをモチーフにして書いた絵のタイトル『Lucy in the Sky with Diamonds』からとった」とのことで、実際ジュリアンの書いた「Lucy in the Sky with Diamonds」という絵も、ルーシー・リチャードソンという名の女の子も実在しているのだが、2004年のポールのインタビューでは、ポールが「LSD説」を肯定するなど、真実は今もって不明である。
そんな中、1967年6月25日(現地)の世界初の衛星中継による、全世界同時テレビ中継「アワー・ワールド(OUR WORLD)」で「ALL YOU NEED IS LOVE(愛こそはすべて)」を演奏したのは有名である。表向きには、彼等の演奏する姿を世界中に放送することで健在ぶりをアピールする効果があった。そこにはローリング・ストーンズのミック・ジャガーや、クリームのエリック・クラプトン、ザ・フーのドラマー、キース・ムーンなど、著名なアーティスト達の姿も見られた。尚、この放送はモノクロ放送であったが、当時の様子を写したカラー写真などからコンピューターによる人工着色がなされた。それが非常にリアルな彩りであったため、「当時の同放送はカラー中継であった」「モノクロとカラーの二種類の記録フィルムが存在している」などの諸説が流れた。
その他、「デビュー前のエプスタインとジョンとの二人きりの何度かの旅行」、「(事前の反対者を押し切って)レノンがエリザベス女王から授与されたMBE勲章を政治的抗議の目的で返還」、「ホワイトアルバムレコーディング途中発生したリンゴの脱退未遂騒動」、「アップルの役員室などにポールが何度も女性を連れ込んでいた問題」、「シングル「ストロベリー・フィールズ・フォーエバー」のエンディングから『サージェント・ペパーズ・ロンリー・ハーツ・クラブ・バンド』『アビー・ロード』のジャケット写真までその根拠にされた『ポール死亡説』」など、取り上げるときりがないほど謎が多く、わずか8年程度の活動期間にもかかわらず、音楽以外のエピソードについても何かと問題・話題の多いバンドであった。
その他関連事項
1985年、マイケル・ジャクソンがビートルズの音楽版権251曲を購入(ノーザン・ソングス名義。レノン=マッカートニー作、レノン=マッカートニー&リチャード・スターキー作、ジョージ・ハリスン作の一部、共同クレジットの一部)2005年現在では約半数を所有していた(残りの半分はソニーが所有)。 1987年3月9日、「レノン=マッカートニー」が「アメリカ・ソングライターの殿堂」に選ばれる。タイトルの通り、本来はアメリカ国内のソングライターに対するものであるが、初のアメリカ以外の作曲家の「殿堂入り」となる。
1988年1月20日、「ロックの殿堂入り」を果たす。(Rock 'n' Roll Hall of Fame)
現在、ポールとジョージ・マーティンはナイトの称号を授与されている。
謎に包まれたビートルズの解散問題については、現在でもファンや評論家の間において様々な噂や議論が交わされている。
かつて幼児番組「ひらけ!ポンキッキ」の一部コーナーで「プリーズ・プリーズ・ミー」「プリーズ・ミスター・ポストマン」「ベイビー・イッツ・ユー」「ホエン・アイム・シックスティ・フォー」「オール・ユー・ニード・イズ・ラヴ(アイこそは全て)」、それにウイングスの「Silly Love Songs」などがアレンジされてBGMとして用いられていたため、1980年代前後に幼年時代を送った世代には、「ひらけ!ポンキッキ」でビートルズの洗礼を受け、長じて熱烈なファンになった人が少なからず存在する。当然彼等は現役時代のビートルズも、ともすると生前のジョンも知らない訳である。このように解散後も新たなファンが増え続けており、ここまで多くの人々の心を揺るがすようなロックバンド、ミュージシャンは、なかなか登場しないといわれている。
なお、ソビエト連邦ではロック音楽を資本主義による精神汚染とみなし、ビートルズの流行は西側からソ連国内の自由化を図るプロパガンダ工作の一種ととらえたため、そのレコード発売には政府からの許可が下りなかった。しかし、西側諸国からの輸入盤や、地下で翻訳されたロシア語版のカセットテープなどが販売され、当時の多くの若者に親しまれた。2003年にポールが行ったロシアの首都モスクワ・赤の広場でのコンサートでは、その編集映像にセルゲイ・イワノフ国防相(1953年生まれ)のインタビューが収録された。イワノフは10代の頃からのビートルズファンと自己紹介し、「バック・イン・ザ・USSR」も演奏されたコンサートにも来場した。
関連書籍
主要書籍
下記の書籍はビートルズのバイブル的なもので、信頼度・信憑性・客観性・知名度が高いものである。
『THE BEATLES アンソロジー』(The Beatles Anthology)(ISBN 4845605228)
発行:リットーミュージック(2000年10月5日)
制作:Apple Corps Ltd.
監修・翻訳:ザ・ビートルズ・クラブ
定価:7,140円(本体6,800円+税)
版型:B4変型上製本
総ページ数:368ページ
ネーム:728,770字
掲載写真点数:約800点
総画像点数:1,300点以上
概要:アップル社公認のビートルズ自身が語る初のビートルズ・ヒストリーであり正真正銘のバイブル。
『Beatles gear 日本語翻訳版』(ISBN 4845607980)
発行:リットーミュージック(2002年10月1日発売)
著者:アンディ・バビアック
翻訳:坂本信
監修:ザ・ビートルズ・クラブ
テクニカル・アドバイザー:大金直樹(ギターショップ with)
仕様:B4変形判/256ページ
定価:5,565円(本体5,300円+税)
概要:ビートルズ使用機材・楽器の研究本で多数の写真が掲載されている
『THE BEST OF THE BEATLES BOOK 日本語翻訳版』(ISBN 4845612534)
発行:リットーミュージック(2005年11月28日)
著者:ジョニー・ディーン
共訳:平林祥,新井崇嗣,上西園誠
監修:ザ・ビートルズ・クラブ
仕様:A4変型判/304ページ
定価:5,565円(本体5,300円+税)
概要:唯一のビートルズ公認雑誌『ザ・ビートルズ・ブック』を凝縮
その他関連書籍
『The Little Box of Beatles』(ISBN 4797327499)
発行:ソフトバンククリエイティブ
著者:アラン・クレイソン
『ザ・ビートルズ大全』(ISBN 4309268056)
発行:河出書房新社
著者:広田寛治
『ザ・ビートルズ 全曲解説シリーズ』(ISBN 440161772X)
発行:シンコー・ミュージック
著者:ジョン・ロバートソン,速水丈
翻訳:丸山京子
『ビートルズ全詩集』(ISBN 4401616634)
発行:ソニー・ミュージックパブリッシング
著者:ビートルズ
翻訳:内田久美子
『ビートルズの研究 - ポピュラー音楽と社会』(ISBN 4818813524)
発行:日本経済評論社
編者:イアン・イングリス
翻訳:村上直久,古屋隆
『これがビートルズだ』(講談社現代新書)(ISBN 4061496530)
発行:講談社
著者:中山康樹
『ビートルズとは何だったのか』(理想の教室)(ISBN 4622083132)
発行:みすず書房
著者:佐藤良明
http://tomato-net.com
http://kaga-city.net
【日記の最新記事】

